こんな時代だからこそ価値がある戦争遺稿
富士自動車さんに入院している我が家のクレアですが、ハブベアリング、ショックアブソーバー、バッテリーボックス以外にもぽろぽろ異常が見つかって、最終的な修理代金にノックアウトされたまろぱぱです。
ブレーキパッドもほとんど残っておらず・・・道理でブレーキの時に変な感触だったわけです・・・
走行充電もされていなかったと・・・よく見つけられましたね~さすがです。
やはり餅は餅屋に限りますな。
今回でキャンピングカーはかなり色んな不安が解消されそうです。
でも、実は車検もあるしもう来年の夏は北海道に行けないかもしれないくらい家計に響きそうです。
まじで宝くじ当たらないかな~(-_-;)
ということで、戦争なんてやってるお金があるなら、世界中に8億人もいると言われる日々食べるのにも困っている貧しい人々に分けてやってよ!と毎日の中東紛争のニュースを見ながら思います。
そして子供が無くなる被害状況を見るたびにとても腹立たしくなってきます。
本当、一番被害を受けるのは女性や子供や老人などの弱い立場の人々なのだから戦争だけは絶対悪です。
どんな崇高な理想や目的、立派な考え方に基づく行動で、たとえそれが全人類の世界平和や科学技術の進歩のためであっても、子供に絶望を味あわせた時点で、それは最悪です。最も悪です。(おもちゃを買ってもらえないとかの贅沢な泣き言はその範ちゅうでなし)
子供が犠牲になっているのに良い社会ができるなんて絶対ないと思います。
なので、今一度、日本がかつて体験した悲惨な戦争の記憶を残そうというこういう施設を訪れてみるのも良いことなのではないかと思います。
本日あまりに天気が良かったので、昼休みにこちらまで足を伸ばしてみました。
かつては東洋一の軍需工場と言われた豊川海軍工廠の跡地に作られた豊川海軍工廠平和公園です。
1945年8月7日にアメリカ軍による空襲で壊滅的な被害を受け、学徒動員の学生など2500人以上が命を落としましたが、今はもうその面影は殆ど残っておらずこんな平和な公園の風景が広がります。
ただ、奥に見える小山はかつて火薬を保管してあった第一火薬庫。
今でもガイドの方と一緒に内部に入ることができ、そのための(?)排気ダクトが伸びております。
ここから内部に入れますが、勝手には入れませんのでご注意を。ガイドを申し込みましょう。
そして、空襲の後、この辺りには名古屋大学の豊川キャンパスの太陽地球環境研究所豊川分室が置かれていました。
今も、まだ公園の外の未開発の部分にはその建物が残っていたりします。
森に飲み込まれそうになりながらひっそりたたずむ建物が。
そして、大空襲の焼け跡から、平和な豊川キャンパス時代に成長してここまで大きくなったと思われる巨木がシンボルツリーとして残されていました。
逆光で火薬庫をバックに。
力強い生と平和のシンボルにふさわしいですね。
できればもっと森を残してほしかったです。
他にも戦争遺跡が色々あるようですが、冬季ならまだ整備されていない他の戦争遺構を見ることができるようです。
こんな街路灯跡を見ると、青春真っただ中に動員され働いていた学生さんや女学生さん達が一生懸命その日を生きていた当時が想像されます。
この街灯の下で、休憩時間にたわいもない話をしていた人がいたかもしれない。
ささやかな出会いがあったかもしれない。
夢を語っていた学生さんがいたかもしれない。
そんなことにまで思いをはせることができたら、戦争なんて絶対できないと思うんですがね~・・・
そんな余裕がない状態に陥ってしまうのが戦争なのか・・・
どうかこの世から子供が悲しむ戦争が無くなりますように。
そして私に宝くじが当たりますように。
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